2019-12-21

cinemastaff_轟音に聞こえる白い声

肝心なことは愛や夢や恋さ 大人には見えやしねーよ

KARAKURI in the skywalker.

ぼくがいっていたころ、ライブでは必ず最後がこの曲だった。
この曲、当時のライブ版では、ラストのcメロのあとにもまだベース音が、それからアルペジオが続いていく。

その最中、Ba三島が自分の生声で叫んでいた。正確に言えば、”おそらく叫んでいた”。
マイクがないから、なんと言っているのかわからない。一番前、最前列なら、なんとか聞ききとれるのだろうか。轟音の中、なにかを一心不乱に叫んでいた。そういえば日によっては、2回目のcメロが終わった後にもなにかを呟いていた。鋭いというか、澄んでいるというか、季節が変わった一番初めの風のようなイントロ。あれが終わって、被る声。「はずがない」、とか「俺たちは、」とかいつも一瞬だけ聞こえるあのセリフ。台詞。ただここにいる自分を肯定するためだけの、無我夢中な叫びだったと思う。

空を飛んでいたのは たぶん本当さ

漫画の主人公にはなれないし、ましてや誰かのヒーローでもないぼくが、あのライブを見た後は何かを持って帰っていた。中二病とか、ピーターパン症候群とか、誰かの言う、何か大きな枠組みだったとしても、自分は自分でいいんじゃないかと、そう思えることができる夜になった。

曲は進行するから、いつも途中で轟音に掻き消されていく。その場に立っているだけの俺たち観客はいつも、固唾を呑んでその風景を、劇団を見守っているだけだった。投影していたのかもしれない。大人にはわからないもの、衝動とかこれからの不安とか、いまある希望とか、そしてそれは、いつかなくなってしまうこととか。そういう気持ちを、立っているだけの俺たちも、叫んでるのかもしれないと、当時思った。

あれから数年が経った。
いまでも、当時の曲を時々聞き返す。ブルーアンダーザイマジネーションというディスクの、2枚目に入っているライブ版。最後の曲のカラクリ。大音量で聴くと、最後のアウトロであいつの声がほんの少しだけ聞こえる。

その時しか聴こえないものは存在する。まだシネマスタッフの活動は続いているが、もうカラクリは演奏されることはほとんどない。されたとしても、もうファン層が違う。当時のアレンジでやることは、そして三島が叫ぶことは、今のシネマのイメージや立場上、きっともうないのかもしれない。俺たちも大きくなった、結婚とか妊娠とか、生活の中で、音楽がそしてそれを聞くことの優先順位が落ちた。今はきっと、前よりも、聴こえなくなった。
例えば目の前に奇跡のようなライブがあったとしても、まだ僕に聞こえるだろうか。前と同じ熱量で、聞き逃すまいと、聞こうとすることができるだろうか。

君が泣いてた 理由を僕は忘れた 世界が終わった 理由を僕は忘れた

俺たちはいつも、忘れていってしまうが故に、泣いていた彼女の理由もわからなくなる。不安でたまらなかった夜も、救われていたはずの過去も、今を生きる熱も。

あの時、叫んでいた言葉がなんであったとしても、もうわからないままだ。知ったとしても、それによって生活や環境やなにが変わるわけでもない。もしかしたら幻滅するかもしれないし、それすらせずに、忘れてしまうかもしれない。
ただそれでも、聞き耳を立てて、音源を聴いている。空を飛んでいたのは、たぶん本当だからだ。ライブ終わりの帰り道の夜、なにかをもらって歩いていた。あの正体は、今思えば覚悟とか、勇気とか、そういう類のものだったんだ。

ライブが終わってしまう最後の曲、最後のアウトロ。音源では終わっていても、ライブでは、シネマスタッフは終わらせなかった。轟音の延長戦の中、VoではなくBaが叫ぶ。マイクもない、歌詞カードにも無い、リハーサルにもない。まっすぐな、ただ純粋な熱。
今見ている俺たちだけの、勇気のようなもの。いつかの夜にもらったあれが聴きたくなって、聞こえない音源をまた聞き返す。
胸を掴んで離さない、俺たちだけの唄。

“大人には見えやしねーよ!!!!!”

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