「好きなバンドはなんですか?」
この質問の回答を、邦楽ロックに絞ると、どの年代にも安定して刺さるバンドがある。サカナクションだ。
電子音と和音の混合、文学を匂わせる歌詞を武器に、時代のうねりに合わせて泳ぐサカナになるとつけた造語。デビューから10年を経てもなお、いやむしろ今の方が瑞々しい。楽曲からは、これからのこと、つまり未来を強く感じる。
新しい、とはどういうことなのか。未来はどこに行けば正解なのか。
そして未来、という文字をみると、いつも思い出すバンドがいる。僕にとって大切なバンド、スーパーカーだ。
長く呼吸を止めて、やっと息を吸ったときの開放感。時代やシーンに流されず、自分らのやりたいことを貫き、浸透させ、喝采の中消えていったUFOのようなバンドだった。彼らがやろうとしたことの一つに、「大衆の意識下」がある。シーンに耳馴染みのあまりない、だけど秀逸な曲を、あくまで簡単そうにどこにでもあるように奏で、意識の中に混在させる。YUMEGIWAや、ラストシーンが顕著に出ている、頭の中で混乱するこの不思議な感覚は、体が浮いていくような感覚がする。
さて、ではなぜスーパーカーは、今のサカナクションのように大衆に受けなかったのか。あるいは築かなかったのか。
今回はバンドが描く、未来について語りたい。
北海道出身、5人組のサカナクション、1st ミニアルバム「go to the future」
M.1 三日月サンセットから始まるこのアルバム。アルバム名からしても覚悟を表している。ネームバリューは弱小とも言え、聴く人は名前すら誰も知らないようなタイミングの1stリリース。それらを恐れ、大体がバンドのセルフタイトルから始めるこの1stのタイトルは Go to the future。気持ちの良い覚悟だ。このアルバムからすでに「連れて行く」という気概を感じる。
音楽的にダンスとロックビートという文字だけ見ると、よくある4つ打ちのバンド紹介に使われるが、サカナクションの場合は根底がエレクトロとテクノだ。Vo.山口がよく、クラブのイメージを変えたい、と言っているが、このエッセンスがうまく散りばめられている。簡単に言えば、手軽でオシャレだ。クラブミュージック全般に言えることだが、何も聞いたことのない初心者が入るにはハードルが高すぎる。その垣根を、ロックやpopの手法、聞き馴染みのリズムを借りて壊そうとしている。アップルのcmで、Siriに向けて「サカナクション流して」というシーンが入ったのも、関係者がその波を予測したんだろうと思っているが、自分たちをどう見せるかという部分に関して、サカナクションは完璧なプロ集団だ。
最近では「834.194」のアルバムもリリース、音響にこだわったアリーナツアー。フラグメント、GEGEといったブランドとのコラボ。夜の遊び方を変えるNight Fishing、通称NFの恒例DJ。スペシャのレギュラー特番NFパンチ、六本木の中心に音楽の遊びの建物を建ててみたり、はたまた音楽フェスにサウナを出現させたりと、考え方が全く枠にはまらない。あるのは、時代のうねりを意識したプロダクトだ。
見えない夜の月の代わりに引っ張ってきた青い君
4th シングル。ルーキー。
自分の中にあるタガを外し、窓から飛び出すような映像。潜水しているように遠く聞こえる音が、聞いていくうちに輪郭をハッキリさせていく。まるで1つずつ階層を上がるように、音がクリアにビビッドになっていく。歌詞カードには載らない歌詞と、リフレインするコードと高揚感。
ものすごく好きな曲だが、このドラミングの無骨感も、リズムの太さも、決して大衆ウケするものではない。だがみんな知っている。この潜って浮上するときの感覚は、世界的なうねりになっているEDMにも通ずる。
近い将来の輪郭をなぞるような変化をする楽曲が、リスナーと化学反応を起こしている。文学的であり、情を揺さぶるような歌詞が先の曲と相まって不思議な回転を起こす。痛みを無視せずに、リスナーを置き去りにせずに、未来まで連れて行くという曲のスタンスを崩さないのがこのバンドのポリシーだ。力強く泳ぐ魚のように、目的地へ向かって楽曲を置き、手を抜かず、あくまでリスナー目線でその経路を作っている。素晴らしいバンドだ。サカナクションは良い広告に似てる。新しいのに懐かしい。誰もが知ってるのに、みんなすこし新しいと感じている。
青い森のUFO、スーパーカー
対してスーパーカーの未来感は、とても感覚的だ。サカナクションを手に取れる未来だとするならば、スーパーカーはとても遠い位置にいるUFOだ。ナカコーの作り出す青いメロディラインに、ジュンジのフッと光る歌詞が載る、サイダーの蓋をあけた瞬間のような不思議な浮遊を曲の中に感じる。が、それは消えてしまう炭酸のように、「いつかなくなってしまう」といっているかのように刹那的で、「それはもう、当たり前に分かっている」と、期待しない諦めも隣を通り過ぎていく。
安心を買った どうしてか心を売って 買った気がしてた 安心はどっか 退屈と似てた そんな何故に撃たれていた
大人になるにつれて分かってきたのは、いつしかこの期待のしない諦めが、自分たちを守る自衛になっていることだ。これから自分を傷つけるかもしれない、そういう感情をもたないようにすること。これらを最初から拒むことで、安定した精神を欲しがっている。でもそれは、手に入るはずだったラッキーや、感動や、心の動きを最初から拒んでいることと同じなんじゃないか。もしもこれから、例えばすべて、なくなってしまうものだとしても。
諦めだけは 夢から覚めても 言わないよ
彼らの1stアルバム。スリーアウトチェンジより、リード曲、クリームソーダ。
いまとなって聴くと、別のことをいってるふうにきこえる。
スーパーカーを解散したとき、彼らは、夢から覚めたのかな。ジュンジはきっとそういうだろう。青森出身、4人組の彼らが見た、都会で走るスーパーカーは、どんな風にみえたんだろう。
ラストライブの最後の曲、TRIP SKY。終わらないループが続くこの曲の終盤。ギターを壊すように弾きその音響を残して袖にさがったナカコーとは対照的に、ジュンジは、最後の最後までステージに立っていた。
あれから彼は一度も、ステージに立ってギターを弾いていない。これはすごいことだと思うし、それだけ彼にとって大切なバンドだったんだなと思う。プロデュース側に回り、美しいバンドと曲を世に出し続けている。ナカコーとみきちゃんはバンドを続けているし、LAMAっていうバンドでは一緒に曲をやったりしてる。ナカコーに至っては、NAKAMURA KOJI名義のライブでよくスーパーカーの曲をやる。2回くらいスーパーカーリバイバルみたいなアルバムも出した。買いはしたけど、僕はほとんど聞くことができなかった。それはもうすでに、スーパーカーじゃなかったからだ。
ナカコーはのちに、今でもスーパーカーの残像を見続けているリスナーに向けて、こうこたえている。
こういう意見はたまに見ることがある。どうやったらこういう想いをもった人の心を軽くできるのか考える。一つ言えるのはメンバーやスタッフは皆スーパーカーというバンドを誇りに思ってるし、今でも大事にしているよって伝えたい https://t.co/NWbhPmsLvK
— Koji Nakamura ナカコー (@iLLTTER) March 22, 2017
夢の中で生き続けたいのかもしれない。YUMEGIWAを聴きながら今でもそう思う。
忘れてしまうはずだった感情は、浮遊感とともに曲の中に生きてる。何不自由ない環境にいて、満足しているはずの日常で、またあのUFOが見られると、どこかで期待して、でも期待してないフリをしてる。
あの頃できるはずだと思っていた情熱が、期待をしないことに慣れてしまっている僕に動けって叫ぶときがある。
青さというもので、何かに蓋をして、理由をつけることでしか動けなくなりそうな時、ふっと糸が切れたような音で、僕を救おうとする。
今でも変わらずに。
「これからボクら 大人になろう たまには後ろ 振り向きながら」
また、まだやれるはずだと思っている。この感情はどこから湧いて出てきたのかわからない。無意識だが、何かが揺れて動く。
理想と現実、青い火と赤い火、できたものとできなかったもの、未来と過去。青い森のUFOの光。
どこにも居場所のなかったユメギワを描き、桃源郷であり続けたスーパーカー。
未来を指差し、時代を超えていく力を提示し続けるサカナクション。
船の上からみた、種類のわからないサカナの魚影。
どうしてもその楽曲の背中に、あるはずのないものを探してしまう。
未来が見えないから不安なのか。
未来はわからないからワクワクするのか。
変化し続ける時代の海で、俯瞰と客観を繰り返す僕らは、泳ぐサカナか、それとも船から見る人間か。
ダメかもしれないと、情熱を握った手を投げそうになるその一瞬、思い出すのは、あの魚影と、UFOの浮遊感。
「行こう手の鳴る方へ 名曲から今日も 自分らしくいようって 痛いくらい届いてるワ」
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