2019-05-11

Mr.children_「重力と呼吸」と、NOT FOUND

もうこれが最後かもしれないと思うことはある。それは危機感的なものでなくて、諸行無常のような静かなもの、どうしようもない流れみたいなもので。そこに逆らったからといって流れは変わらないし、変えることはできない。音楽を聞かない人からすればそれが当たり前だし、聴く人からすればそれが当たり前。双方が、当たり前と思っていることを、もう話し合うこともなくなってしまったから、違和感も喧嘩もないし、ましてやわかり合うことなんて、もう全くできなくなった。
そんな時代に、何をどう歌えばいいか。時代とともに呼応してきた、その感覚と経験で第一線に立ってきたMr.Children。
彼らは何を思い、何を伝えようとするのか。J-POPが、誰もが知る「僕らの音楽」ではなくなってしまった今の時代に、ある意味での息苦しさと、だからこそある解放をうたったアルバムだ。

悲しいのは、今だけ そう自分に言い聞かせ


M.3 SINGLE、ミドルチューンの開かれたPOPな入りから、Cメロで一転。突然豪雨が降るようなメロディに変わる。
“誰もが胸の奥に 秘めた迷いの中で” クロスロードや名もなき詩、ミドルバラードのMr.Childrenのメロディバランスといったらいいのか。上昇と下降を繰り返す、心の葛藤の動きを描いたような展開。僕がミスチルを好きなのはこの人間描写だ。生きていればいろいろあるよねと、その「いろいろ」の部分を蔑ろにして、オブラートに包み、最終的にはみんなそうでしょと、わかったように唄う歌。街に流れている、上っ面だけ真似た数多くの音楽。どんなにスタジオで音を変え、歌唱力があっても届かないもの。今作、ミスチルは、その「いろいろ」の部分を大きく掲げて、それでも生きろと、もっと言えば強く生きろと言っているように思えた。


M.1のyour song、君じゃなきゃとなんども繰り返す歌詞。初めて触れる人にとっては、恋人へむけた歌詞に取れるかも知れない。僕だけかも知れないが、何年も聴き続けている人にとって、この君は「リスナー」だ。いつの時代も同じ曲を、口ずさんでいたのは偶然じゃないし、僕らの意思だ。ある種のあの大きな流れが、僕を救うことがあった。誰かの車で流れる大衆音楽と言われる音楽で、僕らは胸をすく経験をしたことがある。TVで流れた数分の音楽で、涙が流れそうになったことがある。それが最後にあったのは、いつだったろうか。

死を意識したアルバム

いつ最後になるかわからない、と桜井は、今作アルバムのインタビューで語っている。

「(今作では)音楽そのものの中にメッセージを込めてはいないけれど、(26年目を迎えて)今もなお叫びがある、そのこと自体がメッセージになり得るから。年齢も経験も重ねていくなかで、死というものをどこかで意識するようにもなった。だからこそ力強く生きる音に対するあこがれが強くなっている。今の僕にとっては、死ぬか生きるかのところでスプリント(全力疾走)していくことがすごく魅力的です」
yahoo_interview 

どこまでいけば、分かり合えるのだろう

心拍数180以上で、どこまで走れるか。ってのをやっていて、桜井が脳梗塞で倒れたのが10数年前だった。アルバムQが出て、イッツワンダフルワールドのツアー最中だったと記憶している。イッツワンダフルワールドのM.2 蘇生。音楽面でも、精神面でも、「深海から浮上した」と揶揄され、世間でMr.Childrenが、本当の意味で大衆向けの音楽だと認識されはじめた頃だった。一時は生死を彷徨った桜井が、リスナーの前にたったのは半年後、一夜限りの幻のクリスマスライブだった。このライブの3曲目。QのM.1 Center of universe(序盤がこの曲なのも最高だ)から続けて歌ったのが、原曲キーのNOT FOUND。
この曲はミスチルの曲群の中でも、もっともヴォーカルの音域が広く、シングルとして発表するも、本人の桜井でさえ、かなり調子のいい時でないと歌えないと公言。それまでライブのツアーセットリストからはことごとく外されていた曲だった。彼はあの日、もう大丈夫だと言う代わりに、この曲を原曲キーで完璧に唄った。あれを組み込んだのは彼なりの明言であり、バンドに対する覚悟であり、曲に対する向かい方だ。(このDec21、リスナーの感情と桜井の葛藤、再度始動したバンドの呼吸が呼応し化学反応を起こした伝説のライブと言われている。死や解散を乗り越えて唄う後半のALIVE→終わりなき旅→光のさす方へ、なんかは涙なしには見れない)

それ以降のアルバム、and i love you、シフクノオト、home、スーパーマーケット、、時を追うごとに誰もがわかりやすいミスチル像になった。ある意味で肖像的でもある。桜井和寿のその陰と陽の二面性は影を潜め、どちらかといえば小林武史側といったらいいのか、Mr.ChildrenがMr.Childrenとしてあるために人格を形成していった。ただ出演する音楽番組では、求められるものと、放ちたいもの、そのどちらともつかない葛藤が彼の人格の、唄う声のどこかにあり、それが変わらずに僕を惹きつけていた。もしかすると、彼の中でもずっとひっかかっていたのかもしれない。2016年に小林武史を抜いた、彼ら4人で小さい箱のライブツアーを行なったのも記憶に新しい。懐かしくて暖かい、近くにあるMr.Childrenの素晴らしいライブだったと思う。けれどそこでも、NOT FOUNDは演奏されなかった。

今回のアルバム「重力と呼吸」ツアーのセットリスト、突如演奏された10数年ぶりのNOT FOUNDは、原曲キー

これがどういうことか、ここまで読んでくれた方にはわかるだろう。まだ歌う覚悟があるということ。この曲を歌うためにどれだけ努力しなければならなかったのか。きっと多くの反発があり、無謀だと言われただろう。重力と呼吸。10曲入りと彼ら自身のディスコグラフィの中でも短いこのアルバムに詰め込んだのは、紛れもないロックだ。僕の芯を掴んで離さないダイナミクス、主人公は自分だと気付かせてくれる曲。M.4 here comes my love. 小林のキーボードと桜井の叫び、それだけで勝負する曲を本当に久しぶりに聞いた。hallelujah、深海に似た深さのあるメロディライン。揺れ動く心を受け止め、ステージの上に立たせ、「君はどうする」と問う。答えは自分の中にあることを、彼らは知っているように。“はじめから、なかったものって思おうかな”  自分は無力で、無謀で、無知なんだと認めてから、やっと足を踏み出せる。自分を飾れると思っていたプライドや肩書きは、いつのまにか自分を重くするだけの鎧のようなハリボテに見え、なんの意味があったのかわからなくなって、全部どうでもよくなる瞬間がある。彼の叫ぶ声はいつも苦悩する自分の隣にいて、悩んでいる状態であるからこそ響いていく。あの形容しがたい後ろめたさ、生きていくのに恥ずべきことだと思うことも、全部飲み込んでいくようなスケールの大きさ。自分についた嘘、その免罪符を背負って生きているのは僕だけじゃないのかもしれない。

意味もなく走ってた いつだって必死だったな 昔の僕を恨めしく懐かしく思う でも
皮膚呼吸して 無我夢中で体に取り入れた 僅かな酸素が 今の僕を作っている

M.10 皮膚呼吸。自分探しに夢中になっていた、言い換えればNOT FOUNDを歌った頃からは、時間が経った。変わったことも多くある。だけど、意味がないものだと言われてしまう「もう見つからないもの」は、今でも、毎日のように生み出される。「もうないもの」には、「いつかあったもの」が含まれていて、その記憶や履歴からあったことを思い出してしまうからこそ苦しいんだ。全力疾走をしたからこそ倒れて、きっと倒れたからこそ、NOT FOUNDを歌うことが、僕らは聞くことができた。歌うことに対する、わずかな酸素。無我夢中で今を肯定した、ある、と、ない、の矛盾しあったいくつものこと。聞く人に合わせるのか、唄いたいものを歌うべきなのか。分からない。明日はまだ走れるのか、分からない。今でも唄が響くのかも、分からない。どれだけ全力で走っても、抗えないものは存在する。それでも、彼らは走ることをやめていない。少なくともこのアルバムはそうだ。打ち付けられた楔のようなものが僕らを縛り付けていたとしても、彼らは唄うことを選んだ。時代ではなく、聞いてくれる「君」を信じて。

もうこれが最後かもしれないと思うことはある。そう桜井も語っている。年老いていくこと、忘れていくこと。どれも怖いし、重力だ。だけど呼吸を続けているし、続けていく。それは結果であり、意思だ。そのために音楽があるし、そのためにMr.Childrenはこの時代に、このアルバムをだした。僕はそう思う。重力と呼吸。君はどう感じた?

“どこまでいけば、分かり合えるのだろう あとどのくらいすれば、忘れられるのだろう”
どこまでいってもわからないかも知れない。明日はもう答えが違うかもしれないこの暗闇を、走るのが怖くなった時、僕はいつもミスチルを聞く。自分が、主人公だと、思い出すために。

  

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